原子力発電について思うこと
原子力反対の論調が絶対的に強い、しかし私はあえて『それでいいのか?』と疑問を提示したい。みんながみんな言うことは当然だと思うし、毎日あんなニュースを見せつけられたらウンザリするのは当然であろう。しかし、僕はあえてその感情的な内容と世間の流れや傾向を排除して客観的に事実を捉える事が必要だろうと僕は思う。非常時に集団心理や感情に流される事こそ危機である。
私は原子力について言えば、ポジティブな考えを持っている。
私は環境やエコに関して興味があり意識もある。独り暮らしでも牛乳パックは洗ってリサイクルにまわしている。
反対する人の意見もよくわかるがしかし、
『放射能』『核』『眼に見えない人体への影響』、これらの漠然なイメージの恐怖感情だけで反対するのであれば、それは感情的判断とみなし、僕は賛同しない。解らないから怖い、だから反対は私は認めない。福島の人たちの苦しみも理解できる。だかあえて感情的になってはならない。同情はするな!それは下劣な人間のすることだ。
人間は生きている限りさまざまな生命を脅かすリスクがある、どちらかというと原子力発電が原因で死ぬもしくは健康被害をこうむるリスクより、他の種々の影響、交通事故、大気汚染、花粉等々の方がよっぽど大きい、今回の震災を考慮しても。原子力が抱える本質的問題はそこではない。それは
原子力の持続可能性がない事である
もっと言えば原子力の廃棄物問題が本質である。放射性廃棄物は処理できない事が問題の本質だと考える。水力や火力や太陽光の発電と違うのはそこである。太陽光がエコだと言う連中はまぁ科学や工学、あらゆる調べが甘い連中で、発電体の要である高純度シリコンを作るに出る廃棄物はかなりの量でありエネルギーを使う事は常識である。
廃棄できない高レベル放射性廃棄物を何とか処理する夢の方法がある。いや、あったと今はあえて言おう。この方法を日本の科学力の粋を集めて開発し、実用化まであと一歩であったが全て消えてしまった。それが『高速増殖炉もんじゅと核燃料サイクル計画』であった。世界各国が開発に挫折するなか、あそこまで実用化に持っていける日本の科学技術力に敬意を示したい。
エネルギー計画が全てが泡になった今、何をすべきか? 私自身、は原発を拒否する人に関して仕方が無い非難する気はない。それは個人の主張であり権利だ賛成する権利も反対する権利も自由だ。私はは、それよりも建設的な『これから』を考える。私は原子力無しで、日本を豊かにできるよりよい方法があれば喜んでもちろん賛同しよう。しかし生き残るため、時間、資源、事実を考慮すると非情なる選択が必要であることを私は理解し、覚悟している。
さて、こっぴどく痛い目にあった日本原子力、日本のエネルギーをどうするか?失敗をし、多くの人間の非難を受けてあきらめるか?失敗を糧に再度チャレンジするか?それは大きな勇気がいるだろう。非難や屈辱に耐えきれず潰れてしまうのだろうか東電は?
東電を非難して気が晴れるかもしれないが、潰したところで国民に益など無い私は、厳しい非難をうけながらも再度チャレジする人を支持したい。それ辛いことだろう、困難だろう。しかし、日本人はそれでもやれる民族だ、『辛くても辞めない』『がんばり続ける』それが日本人だ。だから一流であると信じている。
逃げたいやつ逃げればいい
過労死を奨励するように見えるかもしれない、死ぬまでがんばり続けるバカな民族だと笑われるだろう。日本に無神論者が多いが、あえていうなら必死でがんばる人に神は宿るでしょうである、そして万事上手くいように導きます。それが日本の宗教です。