モータリゼーションが与えた名古屋の薄さ

名古屋を眺めて感じたことだが、街は大阪に似ている。ただ、なんか味が薄い大阪である。その薄さに関しては僕の主観だ。共感は得られないと思うが僕は思う。
その薄さはなんだろう・・・人は多いいのだけど何も引っかかる物が少ない。すくって感性の篩にかけても砂のようにさらさらと流れてしまう。どうもフィールドワークをしても、なんか収穫が薄い。街に染み込むんだ味というの無いのだ。どうしてだろう



『歩ける街をつくっていいないからそうなるの』

そういうことか解ったぞ!



喫茶店で隣の建築家らしき人の会話を盗み聞きしていた。その話はかなり的を得た答えだった。
つまり、名古屋は歩ける街ではない。みんな車を使ってしまう。歩いて回れる街づくりをしていないのだ、”歩けない街には文化は根付かない”ということである。。
いわゆる私の求めている街的な事がいっさい芽が出ず育たないのだ
大阪でも
京都でも
東京でもある
あの街的な感覚が一切無く、何処まで行っても田舎の感じの、郊外のショッピングセンターに量販店やチェーン店が続く判で押したような感じが続くのだ。街が熟成した文化の匂いが一切感じられないのは、そのためだ。家と目的地を一直線で自動車でつなげてしまうため、個しかなく、人のからみが無い。映画『阪急電車』のようなあれですよ。
その移動の間に感じる、風や人の流れ、人と人を偶然結びつけるドラマ性がないのだ!!



街にドラマ感がない。何か起こりそうな”わくわく”が無いのだ!
自動車が支配されていて、よくできて便利。しかし、自動車が便利すぎたのだ、モータリゼーションが与えたのは結局、薄い町並みだったんだ。
づまり、名古屋は街ではない。『名古屋とトヨタの関係が切っても切れない関係だ』というのをしみじみみんな言っている意味が解った。奴ら既に自動車と対等の関係すらない。自動車がないと成立しない生活は、自動車に支配されているといっていい。これがモータリゼーションだ。モータリゼーションの過度な発達、人々に便利を与えたが、引き換えに街を奪った。そして全体をパッとしない中途半端な田舎に変えてしまった。


僕は心に誓った。これは、風車に挑むドンキホーテのごとく無謀な事だが、決して車に支配されない。


この街でいながら僕は自動車との関係を絶つ!!己のアイデンティティの為に
自動車なんてクソクラエだ。僕はやつらの支配を絶対うけないぞ